日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。
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稲作は長らく朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来し、さらに日本から朝鮮に伝わったという学説が、考古学的には主流となりつつある[1]。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。
文字の記録がほとんどないため詳細は不明だが、現在の佐賀県から産出した黒曜石が朝鮮半島からも出土しており、かなり広範な交易が行われていたようである。
古代
古代には、鉄や紙の生産技術、仏教、医学などの先進文化は、中国から朝鮮を通じて、もしくは中国から直接日本に伝わったとされる。
やがて日本の国力が増大すると、逆に日本の文物が朝鮮にも影響を与え始めた。前方後円墳などが、朝鮮から発見されている。391年には、倭国のヤマト朝廷が百済・新羅を服属させて高句麗と交戦したと広開土王碑には記されている。
高句麗、新羅、百済が分立していた三国時代は、7世紀頃まで続いており、倭国は任那や百済との外交関係を6世紀頃まで続けていた。基本的に倭国の朝鮮に対しての外交政策は、百済とは友好関係を結び、高句麗、新羅とは敵対するというものであった。三国時代の前半は、高句麗が満州にまで領土を広げて最大の国家であったが、6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済と倭に接近し、友好関係を結んだ。
朝鮮半島は、中国の唐と新羅の連合軍が成立したことで統一に向けて動き出した。唐・新羅連合は660年に百済を滅ぼした。663年、百済再興をめざす倭国は百済の遺民とともに唐・新羅連合軍と戦ったが白村江の戦いで敗北した。倭国は撤退したが、領土までは攻め込まれず、事なきを得た。倭国は国を失った百済人の亡命移住を受け入れ、唐や新羅による侵略に備えて九州に防人を配置し、律令制の整備など中央集権国家化を進めた。また、国号も8世紀初頭には日本へと改めた。
高句麗は、百済が滅亡したことで孤立し、668年に宝蔵王らは投降したことで滅んだ。
676年、新羅は唐を追放して朝鮮を統一した。国力が高まった新羅と日本の緊張関係は続き、702年には遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの悪影響があったが、日本からの遣新羅使、新羅からの新羅使は9世紀半ばまで断続的に続いた。698年に朝鮮北部に建国された渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結び、盛んに渤海使・遣渤海使を交換した。日本は、7世紀半ばに済州島に成立した耽羅との間にも遣耽羅使・耽羅使を交換した。
9世紀(平安時代)に入ると、新羅人が九州や対馬で略奪を行うようになり、日本は対策に追われた(新羅の入寇)。日本・新羅の国家間貿易(遣新羅使・新羅使)が滞るに伴い、唐との交易ルートを確立していた張保皐などの新羅商人が活躍した。新羅商人を通じ、中国に入ってくるペルシア、インドなど南国の産物も日本にもたらされた。また円仁は、新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。
中世
中世には元が2度にわたる日本侵略行為(元寇)を行う。『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された[2][3]。 元に服属していた高麗は日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当し、日本の鎌倉幕府は国書を黙殺したために戦端が開かれる。蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする鎌倉幕府の兵と戦った。高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて数珠繋ぎにして捕虜にし、高麗軍に連れ去られた[4]。結果的に日本は、元・高麗軍の兵力不足や暴風雨もあったことで侵略を免れた。元・高麗軍が暴風雨によって大きな被害を受けた際、高麗人の兵はモンゴル兵とともに殺したが、南宋の兵は捕虜として助命した。蒙古襲来に先立ち、1271年に高麗において反モンゴルを掲げて蜂起した三別抄が日本へ救援を求めたが、日本の鎌倉幕府はこれも黙殺している。
日本の南北朝時代から室町時代には、朝鮮の高麗から李朝においては倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らした。高麗や室町幕府は懐柔と弾圧で対策を行う。九州探題として派遣されていた今川貞世(了俊)は高麗使節を迎えて交渉し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった李成桂らが宮中で台頭、滅亡に瀕した元王朝の要請で征明軍を率いて北上するが、途中で引き返して実権を握り、1393年に李氏朝鮮(李朝)を樹立する。
李朝も室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、また中国の明も同様の要請をした。こうした要請を受けて、室町幕府は、3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易であったが日朝貿易が行われる。李朝からも通信使が派遣され、宗希璟『老松堂日本行録』や『海東諸国記』などの日本渡来記も書かれた。日本側からの使者には夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。
1419年、李朝の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬を攻撃する(応永の外寇、己亥東征)。世宗は投降や帰化したものに対しては貿易上の特権を与えるなど懐柔策も同時に行い、倭寇の活動は一時的に収束した。1443年には嘉吉条約(癸亥約定)が締結され、これにより宗氏が李王家の臣下となった。
李朝は朱子学を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教文化財が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には1426年の三浦(釜山浦、薺捕、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しく1510年には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。
近世
日本を統一した豊臣秀吉は明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めるが、良い回答がない為、1592年から朝鮮半島に侵攻した(文禄・慶長の役/壬辰・丁酋倭乱)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌や咸鏡道まで進撃したが、遠い戦線に明の救援や義勇軍の抵抗と交渉による補給困難や講和交渉を優先させせた為、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。日本軍は最終的に秀吉の死去に伴い撤退した。
明・朝鮮の連合軍と日本軍の交戦、そして治安悪化による食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 日本軍の諸大名は朝鮮から儒学者などと供に多くの陶工を連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになる。
秀吉の死後、日本では1600年に徳川家康による武家政権(徳川幕府)が成立した。秀吉の朝鮮侵攻に消極的で朝鮮半島に派兵していなかった徳川家康は、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と朝鮮王朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、1609年には己酉約条が結ばれて貿易が再開され、日本の銀と中国の生糸や絹などが流通する。
交渉を仲介した日本の対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する朝鮮王朝の返答書を偽造、改竄していたが、1635年には事実が発覚し、関係者が処罰される柳川一件が起こる。柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。
1607年以降、室町時代からの朝鮮通信使が将軍の代替わりごとに日本へ来訪するようになり、公式の外交関係が保たれた。だが、1811年に最後の通信使が来訪して以来、両国の公式な関係は途絶えた。
李氏朝鮮は、鎖国政策を続けており、また文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢陽(ソウル)に入る事は出来ず、対馬が釜山に倭館を構えている以外は、朝鮮との交易や情報は入手しづらい状態であった。
対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、倭館による貿易が行われた。また、薩摩藩による武力侵攻で幕藩体制に組み込まれた琉球とも通交が有ったようである。
近代
李氏朝鮮の「開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期?中期」節、大韓帝国及び日本統治時代の朝鮮
日本は江戸時代末期に開国した。王政復古により成立した日本の新政府は近代化を目指した。李氏朝鮮を影響下に置く清国や南下政策を取り続ける帝政ロシアに対する日本の国際政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目した。朝鮮では大院君が排外的政策を行い鎖国体制が維持されていたが、閔氏政権となると、1875年の江華島事件を経て、76年に日朝修好条規を結び朝鮮は開国し、開化政策が行われる。
1894年に、朝鮮を巡る対立から、清国と日本との間で日清戦争が勃発した。日清戦争で日本は勝利した。1895年に日本と清は下関条約を結び、朝鮮が清との冊封体制から離脱すると実質的に日本の影響下に置かれた。これに伴い1897年に大韓帝国へと国名を改めた。
ロシアは下関条約後の三国干渉や1900年の義和団事件の後も満州(中国東北部)の占領を続けた。ロシアは朝鮮にも影響を強め、日本と対立する。日本は1902年にイギリスと日英同盟を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、1904年に開戦された日露戦争において勝利、1905年のポーツマス条約において朝鮮に対する排他的指導権を獲得する。
その後、韓国皇帝はハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、成功しなかった(ハーグ密使事件)。日本は1910年に韓国と日韓併合条約を結んで朝鮮半島を併合し(韓国併合)、1945年の第二次世界大戦敗北まで統治を続けた。日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を植民地支配し、当初は軍事力を前面に押し出した武断統治を行った。この状況に対し、朝鮮側からは1919年に三・一独立運動が発生し、同年には李承晩による大韓民国臨時政府の設立が宣言された。朝鮮北部から満州にかけては金日成が指揮する抗日パルチザン運動が展開されたが、いずれも日本の統治を覆す力はなかったものの、国際的には第一次世界大戦を受けて民族自決の機運が高まり、日本の国内では大正デモクラシーに入り、民生面の安定を重視した内地延長主義へ転換した。
この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた。教育制度も整備され、小学校(国民学校)網や京城帝国大学(ソウル大学校)は独立後の韓国政府に引き継がれた。初等教育では韓国語も教えられたが、高等教育に行くに従って日本の書物や文献を使用し、日本語による教育が重視された。また、日本軍の陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の多くは後に韓国軍へ参加し、やがて朴正煕大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。日本やアメリカの朝鮮史研究では、日本のインフラ整備が朝鮮の近代化の基礎となったとされる[5]。しかし、朝鮮居住者には日本人、朝鮮人共に参政権が無く、朝鮮に多く住む朝鮮人には不利だった。日本に住めば、朝鮮人でも参政権は与えられたが、地盤がないため選挙では不利になった。
一方で居住場所にかかわり無く朝鮮人には1945年まで兵役は免除されていた。農村でも日本人入植者が広い土地を占めるようになった[要出典][6]
日中戦争以後、「内鮮一体」の名の下、それまで公教育で必須科目として教授されていた朝鮮語は朝鮮教育令の改正によって1938年には随意科目となり、創氏改名などの皇民化政策という急速な同化政策が行われた。朝鮮人にも志願兵の募集・徴兵制がしかれ、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した[7]。また徴用により内地(日本)に行かされた労働者や、慰安婦として本人の意思に反して働く女性も存在した[8][9]。
1945年9月、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏、金日成は赤軍(ソ連軍)の士官として朝鮮北部の中心都市平壌に入城し、次いで降伏した日本に代わりアメリカ合衆国が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。